小谷城とは、現在の滋賀県長浜市の湖北町伊部に存在した山城。小谷城主浅井長政が織田信長の攻撃で滅び、現在は城跡となっています。近くにその後、拠点として秀吉が長浜城を築きました。長浜城も幾度かの城主の変遷を経て廃城となり、現在は城跡に復元された天守が建っています。

優れた山城、小谷城
小谷城は、浅井岳とも呼ばれた小谷山に築かれた山城で、優れた山城の一つとして知られています。
戦国時代に織田信長の攻撃で城主の浅井長政が滅ぼされ、妻のお市の方が三人の娘とともに城外に脱出したことで、悲劇的な逸話としても知られています。
小谷城の築城は、浅井長政の祖父、浅井亮政のころで、1510年代または1520年代であったと考えられています。その後、1573年の小谷城の戦いにて長政が自害し、落城し、信長はこの城を廃城としました。与えられた秀吉が新たに長浜城を築いたので、小谷城はそのまま城跡だけが残っています。
現在地は滋賀県長浜市湖北町伊部
小谷城その5。
— 城メタル (@lQdlbF2h08l6sG6) June 10, 2020
本丸跡。 pic.twitter.com/HkeCz15VL1
山城として秀逸と言われるように、小谷山は標高が494.6メートルという山。城が築かれたのはまさに山上から城下や北国街道や北国脇往還を見下ろす位置にあり、北近江を支配する浅井氏 の誇る立派な居城でした。
また小谷城は小谷山の谷筋、尾根筋を活用した形の、南北に長い山城であったことが伝わっています。
浅井三姉妹と小谷城
堅固な攻めがたい城であったため、信長は、1570年の「姉川の戦い」のあと3年余りをかけて小谷城に寝返り工作を仕掛けました。
この3年のうちに武田信玄が病死して、信長にとって最大の脅威が消え、寝返り工作も実り、1573 年の8月には信長は小谷城を北側から大軍で取り囲みます。さらに援軍に来た朝倉義景の軍を追討し、義景は自刃。さらに八月末には、小谷城を総攻撃し、長政も自刃に追い込まれます。
ところでこの小谷城にてお市の方は、浅井三姉妹と言われる3人の娘たちを生んだとされています。お市の方が長政に嫁いだのが1568年。娘たちが生まれたのは、次の年とされます。
茶々 の誕生:1569年
初 の誕生:1570年
江 の誕生:1573年
この年だとしたら、年齢は茶々でも4歳ほど。江はまだ乳児だったことになりそうです。
もっとも別説がありますから、茶々は浅井家に嫁ぐ前に生まれていたという可能性や、江が小谷城を出てから生まれたという可能性も一応、ありとされます。
いずれにしても、お市の方は一旦は長政と共に自刃しようとしたけれど、長政は説得して城から引き揚げさせたと伝わります。夫婦仲は良かったと伝わるお市の方ですから、悲痛な心境だったことでしょう。
三姉妹がどのタイミングで小谷城を脱出したか、正確なことは分かりません。しかし 浅井三姉妹が匿われた実宰院と昌安見久尼の記事にもありますように、事前に浅井長政の姉、昌安見久尼のところに逃れたという説もあります。
地図にありますように(浅井三姉妹が匿われた実宰院と昌安見久尼))実宰院とも近い関係となります。
波乱の歴史を通過した長浜城
長浜城は、小谷城が廃城となってから秀吉が琵琶湖に面した今浜と呼ばれた地に築城した城。
現在は、滋賀県長浜市公園町となっており、豊公園の中にあります。
長浜城 天守閣跡です!
— 藤麿呂 (@mukyuuwoou) June 12, 2020
出世した豊臣秀吉公像があります。
太閤井戸跡、琵琶湖の中だったのか? pic.twitter.com/ap78G3UuDD
滋賀県 長浜城
— wain (@wain46831785) June 13, 2020
羽柴秀吉が始めてもらったお城です。
琵琶湖の北岸に位置し、南岸には明智光秀の坂本城がありました。
天守閣の上からは琵琶湖が一望できます。#国内旅行 #旅行好きな人と繋がりたい pic.twitter.com/EIE94uEGN4
ただし見えている天守閣は、模擬復元されたもので1983年、最近の建築で、基本的には長いこと城跡となっていました。
秀吉は、山城であった小谷城よりも、水運を考えたかは定かではありませんが、琵琶湖に面した今浜、信長にちなんで長浜と名前を変えた現在地に城を築きました。完成は1575年ころと考えられます。
小谷城の資材は、長浜城の築城に用いられました。
城主はもちろん秀吉でしたが、秀吉が遠征に出ていた等の理由で城主(居住した主)はかなり変遷しました。
秀吉 ⇒ 堀秀政 ⇒ 柴田勝豊 ⇒ 山内一豊 ⇒ 内藤信成・信正 ⇒廃城
柴田勝豊は柴田勝家の甥で、清須会議の後、勝家が長浜一帯を支配することになりましたが、1582年のうちに秀吉の攻撃があり、勝豊は秀吉側に下ってしまいました。
また1583年から6年ほどの間、城主を務めていた山内一豊の時代には、1586年の天正地震で全壊するという事故がありました。長浜藩主となった内藤信成・信正は、大坂の陣の後に摂津高槻に移ったため、長浜城は廃城となってしまいました。
しかし、城の資材はその後、井伊直政の遺志で築かれた壮大な彦根城の築城に使われました。ちなみに彦根城は、1603年に始まった築城が1622年までかかっています。
また、長浜城の大手門を移築して長浜市の大通寺の台所門としたことが伝わっています。
地図から読み取れるように、長浜市には小谷城址、長浜城址、実宰院があり、彦根市の彦根城も近く、訪ねてみたい史跡が並んでします。