信長の遺体は「本能寺の変」のあと、発見されていません。「天下人」にもう間近だった信長を撃ったのですから、明智光秀は本来、首を晒してその事実を早急に世に示すはずでした。
しかし、よく知られるように信長の遺体は見つからず、光秀が首を示すことが出来なかっただけでなく、信長の葬儀においてさえ、秀吉が遺体の代わりに木像を使ったのが実情です。
逆に言うなら「何がなんでも敵に首を渡したくない」のが当時の武将だとして、信長は「死に方に成功した」と言ってもいいでしょう。さらに信長の死を隠して速攻で行動した秀吉も、その「成功」の恩恵を受けたと言えるでしょう。
しかし何故見つからなかったの? という素朴な疑問を今さらながら考えてみます。従来から言われてきた説も、近頃(?)お見かけする説もあります。

燃えて判別不能? 古くて新しい説
遺体が燃えたから、判別がつかなかったというのが、古いようで打ち消し難い説となります。
ただし「燃え方」により、遺体の損傷具合も異なるはず。単に館が焼けた程度なのか、火薬を使って遺体もろとも爆発したのか。燃え方が激しくて遺体が特定できないような燃え方が、そもそも可能だったでしょうか。
本能寺という「寺」ではありますが「城」のような構造をもった本能寺にて信長が火薬を備えていたか不明です。しかし城郭化された環境で、爆発のような燃え方は、大いに可能性のある話ではあります。その当時、本能寺は現在の本能寺の場所である中京区の下本能寺前町ではなく四条坊門西洞院(中京区の元本能寺南町)にありました。
当時、判別と言っても現在のような科学的ノウハウを駆使できるはずもなく、単純に「焼け跡では信長を特定できなかった」というそれだけかもしれません。ちなみに柴田勝家の場合は、意図的に北之庄城を焼け落として首を取られないようにしたのが読み取れます。
もう一つ、判別がつかないのは当たり前で、信長だけでなく多数の遺体があったからだという説も見かけました。(https://rekishiru.site/archives/6665)。そう言われてみれば、燃えた館の残骸に、もし多数の遺体が折り重なっていたら、どの遺体が信長かは判別できないでしょう。
この説については、「という説がある」としか、ここでは言えません。明智光秀の末裔という明智憲三郎氏の著作「本能寺の変431年目の真実」でもその説が紹介されている、と上記サイトにはありました。
末裔とされる明智憲三郎氏の見解については、もちろん賛否両論があります。少なくとも『麒麟がくる』の監修者、小和田哲男氏などは明智氏の見解には同意していないようです。
本能寺の変 431年目の真実 明智憲三郎
光秀からの遺言: 本能寺の変436年後の発見 明智憲三郎
いずれにしても信長が自害した後、本能寺が燃え落ちて信長の遺体が識別できなかったーー。他の遺体がたくさんあったか否かは別としても、燃え落ちたために信長の遺体を判別できなかった、というのが一つの説と言えます。
本能寺の跡。現在の本能寺は、京都市役所前のほうに移転しています。
本能寺にそもそも家来は、多数いたのか?
話はズレますが、遺体が判別できないという状況を考えるにあたり、そもそも本能寺には家来たちが多数、構えていたのでしょうか。通説では、明智光秀は1万3000もの家来を従えて丹波亀山城を出立し、翌朝には本能寺を、数は不明ながらも多くの手勢で取り囲みました。
対して信長側は、『信長公記』などの記述によれば、家来たちは外の騒がしさを当初は街の者の喧嘩くらいに思っていたが、いざ明智勢の攻撃を受けると皆、力を合わせて戦ったとされます。敵勢に乗り込んで斬られた者もあり、御殿でも厩でも各々20数名が亡くなり、信長は弓と続いて槍で戦い、最後は、火の手が追う殿中の奥で自刃したと伝わっています。フロイスの記述は、また異なるのですが・・
この時、信長の側に誰が誰か分からなくなるほど多数の者が側に居たのか、というと、少なくとも信長が内側から締め切って自刃したとしたら、その近辺は信長の亡骸くらいしか見つからなかったはず。リアルに表現するとなんですが、遺体が折り重なって燃えていてその中の一人が信長・・・などという状況はあまり考えられない気がします。
ただここで、本能寺はじつは無人に近かったという説があります。
著者の藤田達生氏は、三重大学の教授。2019年に出した著作『本能寺の変』では、フロイス『日本史』を引用しながら、共の者は散らばって宿泊しており、本能寺は無人に近い状態だったと記しています。
翌6月2日未明、本能寺に光秀の軍隊が殺到した。当時、本能寺から直線距離で200メートルたらずの南蛮寺にいた宣教師が、次のような記録を残している(フロイス『日本史』)。
ちょうど手と顔を洗い終え、手拭で身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出て来た。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。
6月4日の西国出陣を前にして、供廻りの多くは京内に散らばって宿泊していたのだろう。本能寺は、無人に近い状況だったといわれる。これを知っていた光秀はその隙をついたのである。
(https://news.livedoor.com/article/detail/16784137/ より 引用部分は著書からの編集部分)
つまり、折り重なるほどの遺体があったのではなかったはず、ということ。
ただし上記の記事は念のため、本能寺に家臣が多数いたか否かをテーマにしたものではありません。
タイトルは『光秀の死を決定づけた「本能寺の変」後のムダな時間』とのこと。
中身は、明智光秀は衝動的に本能寺の変を起こしたのではないということ。さらに光秀が朝廷から政権の担当者として承認を得るために、6月7日まで勅使の到着を待つための時間を開けてしまったことが、山崎の戦いでの敗北に繋がった、という趣旨の話でした。
このなかで、上記のように、「無人に近い状態だった」の件が登場します。
遺体を持ち出した清玉上人
ここで別説、すなわち本能寺の変の直後に何者かが信長の遺体を持ち出したという説について考察します。長いこと伝承として言われてきたのが、清玉上人が阿弥陀寺に持ち帰って、納骨して供養したという説。
阿弥陀寺の清玉上人が本能寺の変の知らせを受けて本能寺に向かうと、武士たちが信長の遺骸を火葬していたので、遺骨は自分が 供養すると言って、光秀側を欺いて本能寺から持ち帰り、阿弥陀寺で納骨して供養したというのです。
供養したということは本当だとしても、戦いの最中に武士が葉を集めて火をつけている等の場面はちょっと考えにくいことです。まして戦いの最中に、上人たちが本能寺に出入りして、まして欺いて信長の遺骸を運び出すなど・・いかにも物語的な印象ではあります。ということで「信長公阿弥陀寺由緒之記録」の話が、清玉上人の伝説ーー。
なお山崎の戦の後に秀吉は、こちらの阿弥陀寺で信長の葬儀を行うと言ったけれど清玉上人が毅然と断ったため、秀吉は大徳寺で 葬儀を行い、阿弥陀寺は後に廃れました。
しかしその経緯からここに「織田信長公本廟」があります。秀吉は、何度も拒否した清玉上人を憎んだことでしょう。阿弥陀寺を縮小させてしまいました。現在の阿弥陀寺は、上京区の鶴山町に移転した寺となります。
日海指示の持ち出し説
もう一つの伝説は、日海という僧の指示で信長の首を持ち出して、駿河に脱出し、西山本門寺に埋めたという伝説です。
信長のお供をしていた人物の一人が「原宗安」で、原宗安の父と兄が本能寺の変で犠牲になり、その時に父と兄の首とともに信長の首を持ち出して、駿河に脱出し、西山本門寺に埋め、横にヒイラギを植えた・・・ との話で、柊(ひいらぎ)は樹齢500年ほどでヒイラギ寺とも伝わります。
日海という僧侶は囲碁の名人で後に本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)と呼ばれるようになりました。本能寺の変の前夜に、ちょうど信長の前で同じく僧侶の利玄と対局し、勝負がつかなかったと伝えられています。
本能寺の変にたまたま居合わせて、遺体を駿河まで持ち出したというのは、やはり伝説的なイメージは拭えません。徳川家康の領国である駿河まで?ということ。しかし今日まで伝わっているという事実が、すでに歴史の重みを語っているようです。
以上、本能寺の変については、何故この事件が起きたかを巡って諸説の論があり、未だ決着がついていません。関連して発見されなかった織田信長の遺体、遺骨、首についても諸説あります。今後もまだまだ新たな見解が出てくるように見えたいへん興味深いテーマです。