
秀吉の後継者として関白に任ぜられた豊臣秀次は、最後は秀吉によって自害に追い込まれ、その妻や娘たちまで一族がこぞって殺害されました。その契機は、秀吉に思いがけず拾(ひろい)、のちの秀頼という後継者が生まれたから。しかしじつは秀次は秀頼誕生の不自然さを知っており、ゆえに秀吉を追求し、しかし抹殺された可能性が・・・
秀次は、こう解釈されているが・・・
豊臣秀次(1568〜1595年)は一般にどんな生涯とされているでしょうか。
秀吉の姉(とも)の長男、すなわち秀吉の甥として生まれ、諸々の家での養子などを経て、改めて秀吉の養嗣子となってから1591年末には関白に就任し、しかし秀頼が1593年に誕生した後1595年、突然の「謀反の嫌疑」がかけられ、無理やり出家させられ自害に追い込まれた・・・とおよそ理解されています。
自害前の数年前の動きについては、およそ以下のような話が指摘されています。
・秀頼が生まれたばかりの当初、秀吉と秀次の関係は表向き良好で、秀頼と秀次の娘を婚約させようともしていた。一方で秀次は喘息もあり、心身ともあまり芳しくはなかった。
・秀吉は伏見城にて、大阪城の秀頼と、聚楽第の秀頼の間で両者を見守っているように見えたが、しだいに大阪城と伏見城が強化され、淀城を壊すことで相対的に秀次の勢力が弱められたとも考えられる。
・秀次は、秀吉に代わって名護屋城で朝鮮の陣を指揮すべきと周囲(黒田官兵衛など)から進言されても聞き入れずに日夜、淫乱に明け暮れ美妾たちと遊んで暮らしていた。
幕末に喧騒を極めた町筋の高瀬川沿い、木屋町の通りに小さいお寺がある。瑞泉寺である。「豊臣秀次公の墓」の案内板が門前に慎ましく建っている。僕は、妻妾、子供達までを殺戮した秀吉の狂気が憎らしい。
— T.SANADA (@tsanada1600) July 18, 2020
こんなことが豊臣家の滅亡の遠因になっているのかも知れぬ。 pic.twitter.com/3hZTg1ZENK
これらには、真相が不明な部分もありますが仮に事実だとしても、秀次に向けられた1595年(文禄4年)の秀吉の対応はあまりに早急でした。6月にいきなり謀反の疑いがかけられ、7月15日には高野山にて自害させられました。享年28。
家族まで皆殺しにされた秀次
それだけで終わらず、秀次の妻妾公達が39名、8月2日三条河原にて斬首され、ついには「秀次悪逆」が刻まれた首塚が築かれたという惨状ーー。
こうされるような、どれほどひどい人間だったというのかーー。否、仮にそうでも、妻子まで徹底した処刑ぶりは、むしろ秀吉の恐ろしさを思い知らされます。秀吉はこの頃、マトモだったのか?
文禄4(1595)年7月15日は、豊臣秀次公のご命日ですね。
— 小栗さくら@歴史タレント (@oguri_sakura) July 15, 2020
京都の瑞泉寺には、秀次や一族の墓所があります。
お寺がある場所は、当時三条河原の中州(秀次一族の処刑が行われた場所)だったということです。
地蔵菩薩像は、処刑の際に貞安上人が刑場に運び込み、子女たちに引導を授け続けたと伝わります。 pic.twitter.com/Q8cWCPtzCE
秀吉のことは置いておいたとして、そもそも秀次は悪行の限りを尽くした人物で、「殺生関白」と揶揄されるくらい人を殺すのが好きで楽しんでいた、とされてきました。
小学館の歴史漫画シリーズ(日本史)でさえ、秀次が、身重で大きなお腹を抱えた女性たちを自分の前で裸で歩かせて、いたぶる場面が描かれており、じつにゾッとしました。史実なら仕方ないのか、子どもに歴史を教えるのに、こんな場面が必要か・・・と。
話がズレました。
このページでは、じつは秀次は極悪な人ではなかったとか、そういう説を試みたいのではありません。そんなソースもありません。
ただここでは、秀次の秀吉に対する反発は(反発したことも仮定ではあるが)、秀吉に実子でない秀頼が、いわば犯罪行為の結果として生まれたのに、実子であるかのように扱い後継者にするということへの反発だったーーという説について、考えます。
秀次は「秀頼誕生の不自然さ」を知って抗議した!?
その資料となるのは、何度か引用している『河原ノ者・非人・秀吉』服部英雄著 に拠ります。『河原ノ者・非人・秀吉』(服部英雄著)
秀次の処刑で特異だったのは、妻子が一人残らず処刑されたこと。それは「秀吉の方針に一人でも根本的な疑問を抱くことがいることは許されなかった」から。(『河原ノ者・非人・秀吉』656ページ)
拾(秀頼)が生まれたあと、淀殿についていた女房たちが処刑されていました。
文禄2年(1593年)10月頃と想定される『時慶記』の記録として、秀次は聚楽にて公卿を招いて能の予定があったが、急に伏見に行くことになり、すなわち緊急に秀吉に会いに行ったとされます。それを著者の服部氏は、秀次の強い主張があったからとしています。
秀次くらい秀吉の家族に近い立場にあれば、世の人が騒ぐか否かと関係なく、淀殿の懐妊がもし現実的にあり得ないことなら、その経緯を知っていたはず。あるいは、実子でないと知っていて周囲が皆、事実を黙殺したとしても、秀次だけは、秀吉に抗議しに行った(かもしれない)、というところでしょうか。
淀殿の御殿は乱れていた。女房たちが処刑された。淀はさすがに処刑などされず、表向き大切にされながら、不気味さも味わっていたはず・・・
一方で秀次とその家族が、淀君の産んだ秀頼のことで不当を主張したとしても、妻も妾もその子どもたちも皆殺しにされ、その殺され方の残虐さに、周りも、落書事件も起きないどころか、恐ろしく口にもできないテーマとなった・・・
戦国の世でも、敵を滅ぼしても通常は妻子までは殺すことはなく、それゆえにお市の方もその3人娘、その一人である茶々も生かされてきました。しかし秀次に関しては、秀頼の嫡子相続が危ぶまれるような主張をした(?)秀頼一家は、妻も子もろとも三条河原で処刑され、その恐ろしさは充分すぎるほど人々に伝わっていた・・・
服部氏の説については、茶々が名護屋には行っていないことが前提なので、まだ決着のつかない異論のある説と思われます。また、1593年秋に秀次が秀吉に抗議したとしても、いきなり「謀反の疑い」が、捏造にしても浮かび上がってくる1595年までの経緯も、充分には説明されていないようにも見えます。(著者には論拠があって記していないだけかもしれません。)
そして豊臣秀次墓(畜生塚)へと。#豊臣秀次 #凝灰岩 pic.twitter.com/9Cv7tHeX7o
— 梅林秀行 (@chang_ume) November 7, 2019
しかし、一旦は関白にされた秀次が、「悪行を尽くす人物で、思いがけず実子の秀頼が生まれたことで秀吉から関白を外された」というストーリーには収まらない物語がまだまだ見えてきそうな気がします。
意外にも秀次は、伝えられているような人物像とは違ったのかもしれません。ルイス・フロイスの『日本史』には、日本人の先入観(?)とは異なる、つまりは正しいかも知れない記録を期待してしまいます。フロイスは秀次のことを禁欲的、あるいは穏やかな人物と記したらしいので、そこも気になります。
完訳フロイス日本史〈4〉秀吉の天下統一と高山右近の追放―豊臣秀吉編
以上、豊臣秀次について、淫乱にからむ悪人のようなイメージが先行するけれど、真相は、そうでなく秀吉の跡継ぎにかかわる秀頼の出生問題で抗議したからの処遇だったかもしれない、ことについてでした。