
石田三成といえば、秀吉の忠実な家臣にして関ヶ原での敗軍の将・・というのが誰もが思い浮かべる人物像でしょう。一方で茶々こと淀殿は、秀吉の側室となり、鶴松を産み、拾こと秀頼を産み(異説があるとしても)、秀吉亡き後の豊臣家を背負って立ち、大阪の陣で秀頼とともに滅びたことも、またよく知られることです。
ここで敢えて両者を並べてみると、もちろん同時代に生きた二人ではありますが、秀吉を挟んで本当に接点があったのでしょうか。接点および関わりはどの程度のものだったでしょうか。
三成と茶々の年齢関係
まず時間軸を確かめると・・
石田三成(1560〜1600年)
茶々こと淀殿(1569〜1615年)
二人は秀吉によって一方は側近、一方は側室。共通点を探すと、生まれはともに近江国で現在の長浜あたりに縁があります。
三成は、秀吉が近江長浜城主となった1574年ころから秀吉に仕えますが、この頃、茶々はというと、父の浅井長政が、信長に攻められて小谷城が陥落したのが1573年のこと。
あらためて年齢を考えると、その当時、三成はまだ14、15歳。茶々は通念のように1569年生まれだとするとまだ4歳ほどの娘です。
大原観音寺 滋賀県米原市
— kazu.k (@kazuk38552677) August 28, 2020
本尊 十一面千手観音
三献の茶❗️ 石田三成と秀吉の出会いの地として有名な寺です。
三成が茶の水をくんだ井戸も残されでます。
御朱印頂きました。 pic.twitter.com/nMqEdYCzZz
そして幼児だった茶々は、母の市の再婚にともなって柴田勝家のもとで育てられ、1583年の賤ヶ岳の戦いにおいては、ご存知のように市は夫とともに自害し、3人姉妹は保護されました。小谷城陥落から10年を経てこのとき、茶々は14歳ほどの少女に成長していたはずーー。
賤ヶ岳の戦いの後の茶々は不明点が多い
一方で石田三成は、秀吉の部下として賤ヶ岳の戦いでも活躍し、1586年あたりは堺奉行となり、しっかり堺を従属させています。しかしこの頃に、三成と茶々に接点があったかは本当は不明です。
確かなことは、1583年の賤ヶ岳の戦いの時に、助けられた茶々たちは北庄城を出たこと。そして1588年ころに茶々は秀吉の側室になったということ。しかしこの間の5年ほどのことが本当はよく分かっていません。
北庄城を出た茶々たちは、本当に安土城に行ったのか。安土城だとしても面倒をみた権力者は誰だったかーーー。これには諸説あります。
(浅井三姉妹が匿われた実宰院と昌安見久尼 にあるように、浅井三姉妹が実宰院に逃れたのは、小谷城からという説の他に、北庄城から、つまり10年後の賤ヶ岳の戦いの後だったという説もあります。)
じつは、時代考証について多少の批判もあった大河ドラマ『江 姫たちの戦国』においては、北庄城に石田三成が秀吉の名代として交渉に行ったり、その場で、ヒロインだから(!?)、江を演じた上野樹里さんが雄雄しく立ちはだかったりしました。
そこはドラマと割り切るとしても、1583年当時、三成と茶々が本当に顔を合わせていたかは、やはり判然としません。
余談ながら大河ドラマ『江 姫たちの戦国』は2011年の放映でした。あらためて10年近く経ったことに、そしてあれは東日本大震災の年だったことに思いを新たにします。しかし現在、10年ほどの経緯で歴史研究も進んでいますけれど、少なくともこの件は結論が出ていないようです。
側室となった茶々は誰の子どもを産んだのか?
茶々が秀吉の側室となった1588年以降は、立場上、三成と茶々が物理的にもおそらく近く居る場面も多かったことは推測されます。歴史上の説でも、そして現在でも諸々のサイトでは茶々の近くにいた三成こそ秀頼の本当の父親ではないか?と、ウワサ程度の説も含めて、諸々出ているようです。
しかし諸説あるなかでも、「三成=秀頼の父」説は、ほとんど有力ではありません。一次資料がないし、そもそも近い関係だったかも?という以上の、論理構築に足る前提がないようです。

むしろ大野治長のほうがまだ、秀頼の父かも?説には現実味があるようですが、そこはここでは省略。
ちなみに例の『江 姫たちの戦国』では、三成(萩原聖人)はご丁寧なことに、茶々に対して「秀吉の気持ちを汲むように」と懸命に説得したりしました。三成の説得が効いたか否かは別として、茶々は、その真意も不明ながら、結局は秀吉の側室となるわけです。
さらに茶々は1589年、すて(鶴松)を産み1593年に拾(秀頼)を産み、豊臣家において不動の立場を築いていきます。豊臣秀頼はやっぱり秀吉の子ではない!にあるように、事実はともかくとしても「秀吉の子」を産むこと、それが茶々の何よりもの使命と、本人が強く意識していた可能性は高いでしょう。
この時期を考えると、三成から見て茶々は「主君の奥さん」。そこは憶測も含めると、三成は茶々に気があったとか、いや敵対関係だったとか・・・諸説出てきます。しかし三成と茶々に何らかの「関係」が生まれるしたら、秀吉と三成があまりに近かったというより、秀吉が三成を固く信頼していたからこそ、実際は不可能だったのではないか、という論が有力です。
永作博美って本当に可愛い。大河ドラマで淀殿役やったときの強い永作博美だいすき。 pic.twitter.com/Kie9QgTakq
— 屑仁 (@KYOMO_KAODEKAI) August 25, 2020
(大河ドラマ「功名が辻」で淀殿を永作博美さんが演じたのは2006年のことでした。)
多忙だった三成
三成は1587年の九州平定に軍を動員していますし、九州の平定後には博多奉行にも就任し、1588年には薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋したり、1590年の小田原征伐に参陣したり、1592年からの朝鮮出兵にも実際に渡海して活躍したり、実際のところ三成は多忙でした。
いくら秀吉に近い立場だからと言って、秀吉の側室の茶々と関わりをもつヒマは実際、なかったとも考えられます。
そして秀吉が1598年に亡くなり、その後の複雑な対立関係を経て石田三成は関ヶ原の戦いに突入するわけです。淀君としては、家康の顔色を一応、伺う立場ですので、関ヶ原ではシンプルに三成を援護することもできない微妙な役回りでした。
追記:大河ドラマ『江 姫たちの戦国』で石田三成(萩原聖人)がどのように設定されていたか、ついでながら確認してみました。
三姉妹と同じ近江国で育つ。三姉妹の父・長政を破った小谷城攻めの武功で秀吉が長浜城主となったころ、秀吉と出会いその才能を見出される。(中略)
そんな三成を最も悩ませたのは、茶々だった。心につのる茶々への想いと秀吉への忠誠心の狭間で苦しむ三成。その呪縛は秀吉亡き後も続き、茶々への想いが、天下を揺るがす関ヶ原の戦いへと三成を駆り立てていく--。
ここでは、秀吉への忠誠と茶々への愛の間にいた三成・・ということでした。う〜む。。という感じですが。