織田信長による馬揃えは、1581年の『京都御馬揃え』(きょうとおうまぞろえ)などと呼ばれ、大規模な軍事パレードとして歴史に残っています。信長の目指した「天下布武」を世に誇示した行事で、当時の正親町(おおぎまち)天皇との間は、信長が攘夷を迫ったという説もありますが結論は出ていません。

信長の馬揃えとは?
馬揃えとは、名前のごとく名馬(騎馬)を集めて行進する、今でいう軍事パレードです。信長が1581年(天正9年)に行った馬揃えが、『京都御馬揃え』として著名。
この時期に信長が馬揃えを行ったのは、戦国大名をはじめ信長の配下にある者たちを総動員して、もはや天下統一は近いことを誇示したかった・・という事は、間違いないでしょう。
担当奉行は明智光秀という説がありましたが、最近言われてないので不明ーー。結果から見ると、光秀との関係はまさにその翌年、本能寺の変で信長が絶命するわけですが。
行進の順序は以下のように言われます。
まずは
丹羽長秀 + 蜂屋頼隆 + 明智光秀 +村井貞成
次に
織田一門
(織田信忠・織田信雄・織田信包・織田信孝など)
次に
公家衆(近衛前久、正親町季秀など)
次に
信長の馬廻り衆や小姓衆、さらに柴田勝家たち
次に
織田信長 ←本命!
その前に「信長公記」では以下のように記されています、
御馬揃、それは2月28日に信長公が五畿内および隣国の大名・小名・御家人を召し寄せ、駿馬を集めて天下に馬揃を催し、帝の叡覧に入れるという式典であった。
馬揃に際し、信長公は上京内裏の東の北から南八町に馬場をこしらえ、その中へ高さ八尺の柱を立てて毛氈で包み、周囲に柵を結いまわして席を作った。また禁中東門築地の外に行宮①を建てさせたが、これも仮殿でありながら金銀を散りばめた豪華なものであった。そこへ清涼殿より帝・雲客・卿相・殿上人が数をそろえ、衣香を四方に薫じさせて装いも華やかに来場したのだった。摂家・清華家の面々が一堂に会して帝の座所の四面を守護し、左右に作られた桟敷に居並ぶ豪華壮麗さは、まことに筆にも言葉にも尽くしがたく晴れやかなものであった。
信長の姿は、さすがに図版が残っていないのですが、絢爛豪華な衣装だったと言われます。
行進は朝から午後2時くらいまで、行進だけでなくオプションで馳せ駆けとか、馬術を見せるとか趣向が凝らされていたもよう。
天皇や公家も招待され、民衆も見物できたし、パレードに出ない他の大名たちも見物しました。
あの時代に、一万を越す馬や人が大掛かりな構成の中で、この日を過ごすのですから・・・素晴らしいです。この一大企画に民衆も、その他の大名も、皆「信長って凄い!」と納得するし、信長のおかげで都も平和な気がする・・・そうなると、信長の思うツボ。。
大雑把に言うとそこが、この馬揃えの意義でしょうか。
この時、信長の泊まったのが「本能寺」。翌年に裏切られて自決した因縁の地でした。
この時代、信長だけでなく諸大名も馬を揃えるというのが一つの事業でした。有名な逸話が「山内一豊の妻」のなかで『馬揃え—名馬をヘソクリで買った逸話の真相』として紹介されています。
大河ドラマの『功名が辻』では、エピソードの主、山内一豊の妻は千代さんであり、演じたのは仲間由紀恵さんでした。
天正9年(1581)3月5日(旧暦)、織田信長は京都にて、大規模な馬揃えを挙行。駿馬300頭を飾りたて、信長自身も度々衣装を替えて現れ、正親町天皇より拝領の羽織も着用しました。公家衆や誠仁親王も見物し大盛況で、姫路にいた羽柴秀吉は参加できないことを悔しがりました。#戦国武将かるたレジェンド48 pic.twitter.com/oHi6bMjXFE
— 【公式】戦国武将かるたレジェンド48 (@ByEiylIMBRDr5kf) March 5, 2019
うわーん😭⤵️⤵️
— 北条藤菊丸(氏照) (@3urokoujiteru) June 18, 2020
懐かしい想い出…
在りし日はこんな感じで、馬揃えを共に見てたりしたかなぁ? pic.twitter.com/gVgpCEZLWg
コロナで自粛中、「麒麟がくる」からの「信長の野望」…それでも暇すぎてNHKオンデマンドで「功名が辻」を全話イッキ見しました(((^^;)
— トウサンバン (@mamamusumeevo) May 23, 2020
仲間由紀恵さん演じる千代殿に惚れ申した❗ pic.twitter.com/bKX8zYBcvl
馬揃えの頃、信長と正親町天皇、二人の権力者がいた
正親町天皇(1517〜1593年)は第106代の天皇。
信長の馬揃えの時に招待されました。なにせ馬揃えの会場は、京都内裏東ということで、陣中と呼ばれる言わば天皇の聖域にて、信長は世紀の大イベントを挙行したわけです。
それが可能だったのは信長が、正親町天皇に、双方が好意的であったか否かはともかくとしても近い関係だった、つまり信長が威圧的な態度を取れる関係だったか、もしくは天皇が信長に懇意であったか・・ここは不明です。しかし、現実に陣中で馬揃えは行われました。
この当時の皇室は、困窮していました。
106代天皇の正親町(おおぎまち)天皇は、在位期間が1557〜1586年と、30年近い長期間に見えます。しかし、安泰というよりは波乱に満ちた期間と言えそうです。
1557年に後奈良天皇の崩御のあと、当時の皇室の乏しい財政事情から正親町天皇はすぐに即位の礼も行えず、毛利家の献納などのおかげで1560年になって即位の礼を挙行しています。もう一つ注目すべきは、信長が京都に入った後、1573年に足利義昭が京都から追放された(足利義昭、最後の将軍は信長に担ぎ出され、かつ追われた。)のも、形の上では天皇の命令でした。
すなわち、天皇と、天皇という権威を利用した信長、という実質の権力者がともに居た時代・・でもありました。この件をイエズス会の宣教師コスメ・デ・トーレスは、『日本の世俗国家は、ふたつの権威、すなわちふたりの貴人首長によって分かたれている。』と記しました。宣教師の記録だけで断定できませんが、少なくとも海外から来た者にさえ(者だから?)、「二人の権力者」が見えていたというのは、着目に値します。
結局は、信長のほうが早く亡くなり、天皇は1586年に後陽成天皇に譲位します。そして信長の後、豊臣秀吉もまた、正親町天皇の後ろ盾で権力を伸ばしていきます。
つまり、正親町天皇の代は何であったかというと、その時に皇室の貧窮状態から抜け出した上向きの時代とも言えます。そういう時代に、正親町天皇と信長という二人の関係の詳細は諸説ありながら、ともかく信長は、京都御馬揃えをやってのけたのでした。
〈戦国・安土桃山時代の天皇〉106正親町,107後陽成 ★正親町天皇は織田信長を右大臣、豊臣秀吉を関白に任命。後陽成天皇は秀吉を太政大臣、徳川家康を征夷大将軍に任命。統一政権の誕生により戦国乱世が終結。
— 羅針盤ゼミナール(北条塾兼用) (@Rashimban2) June 23, 2020
小和田哲男『明智光秀・秀満』、読了。
— 初級日本歴士 (@Wdv1KJuMriZWjtU) June 20, 2020
秀満のことはあまり載ってなかったですよwww
小和田先生は信長が正親町天皇に圧力を加えていた、
としますが、近年は信長と朝廷は良好な関係にあったという学説が主流です。非道阻止説も学界で否定され、小和田先生は旗印が悪い感じですwww