「羽柴秀勝」と呼ばれた人物は3人いました。武家のことかつ意図してのことで、最初の羽柴秀勝は羽柴秀吉の息子とされる石松丸。その子が夭逝したあと、信長の四男の於次丸を養子にして二人目の羽柴秀勝。その人物が病死して後、姉の子を養子として三人目の秀勝。この秀勝と浅井三姉妹の江が結婚して子孫が現在に繋がっています。

石松丸(いしまつまる)の羽柴秀勝
羽柴秀勝は3人居たというより、最初の秀勝が亡くなったことにより、羽柴秀勝と名乗らされた養子の「秀吉の子」がその名を継承し、結果的に3人居たというほうが適切でしょう。
そこまでして用いられた「秀勝」という名前は、織田家の宿老だった丹羽長秀の「秀」と柴田勝家の「勝」から取ったと考えられています。名前を一字もらうことと、その後の敵味方関係が異なるのは、この例だけではありません。しかし、なんとも因果な名前と言えそうです。
最初の子は、1570年生まれと推定され、石松丸秀勝とも呼ばれます。しかし、そもそも秀吉の実子であったかも含めて断定的に言えない人物。両親や生没年については以下になります。
父:秀吉とされる (養子でないとは断定できない)
母:諸説あり不明
生年:1570年、1573年、1574年など
没年:1576年
没年だけは複数の資料から1576年と言えそう。推定すれば5、6歳で夭逝した男児ということで、ただし、こういう子がいたという事実そのものを伝承とする捉え方もあります。
母は、正妻のねねでないことは確かながら、複数説があり不明。
ところで後に秀吉の側室となる淀君(茶々)が1569年生まれとすると、石松丸と同世代。その当時秀吉は朝倉義景を攻めることに忙しかったはずであり、「どこで」「誰に」産ませたのか、供養塔が残っているとはいえ、実際のところは不明な「秀勝」です。
幼くして亡くなった、秀吉の子・羽柴秀勝(豊臣秀勝)の廟所、妙法寺。
— 小栗さくら@歴史タレント (@oguri_sakura) September 26, 2018
秀吉の長浜時代の子とされますが、実子説・非実子説があり、生年についても諸説あります。
妙法寺はもともと小谷城下にあったのを秀吉が移転したのだとか。
今は長浜駅から徒歩10分ほどの場所にありますよ😄 pic.twitter.com/4n3LvJpD70
余談ですが、後に大阪の陣で滅ぼされる豊臣秀頼は1593年生まれ。石松丸が秀吉の庶子ながら長子だとしたら、秀頼とは20年以上の年齢差になります。しかし、そもそも秀頼の父は本当に秀吉なのか等々の諸説を考え合わせると、カオスではあります。
追記:石松丸は「伝、秀吉の子」という解釈もあり、つまり本当に秀吉の子だったかは確かでなく、実在したのかということもじつはよく分からないとも言えます。 豊臣秀頼はやっぱり秀吉の子ではない!
於次丸(おつぎまる)の羽柴秀勝
2人めの「羽柴秀勝」は、信長の四男で於次丸(おつぎまる)。於次丸は1569年生まれで、秀吉が信長に頼んで1577年ころに養子にもらいました。
父:織田信長
母:不明
生まれ:1569年
養子となる:1577年
没年:1585年
ここで「信長の四男とは」と考えると、そもそも信長に男児が何人いたのでしょうか。
本能寺の変を経て、清須会議で信長の後継者決定に当たり、候補に上がるのは次男と三男の、信雄と信孝。この時点で長男の信忠は本能寺の変で自刃しています。
四男が於次丸。
五男の織田勝長(御坊丸)も遠山家に養子に入った後、本能寺の変で討ち死に。六男の織田信秀 (三吉)は本能寺の変の時点でまだ元服前で、後に羽柴姓を授けられます。七男の織田信高(藤十郎。)も同様に後に羽柴姓。・・というように十一男まで知られています。
そこで於次丸の話に戻ると、養子となった1577年当時10歳ほどの男児で、秀吉にしてみれば亡くした石松丸と同年代の、主君の息子でした。羽柴家としては於次丸を養子に貰い受けることで、羽柴家の跡継ぎを確保しようとしたことでしょう。
四男というのは微妙だったかもしれません。清須会議で秀吉は、信長の嫡孫として三法師を推すことに成功しました。しかし、養子としていた四男の羽柴秀勝を推すというウワサもあったもようです。
もし後継者として推されていたら、この秀勝はもっと歴史上に脚光を浴びる立場だったでしょう。しかし実際は18歳ほどで病死してしまいます。
清須会議の後、この秀勝は丹波亀山城主となり、1582年10月の信長の葬儀の際には、棺の後轅を秀勝が持つ重要な役割を任されました。さらに、1583年の賤ヶ岳の戦いなどにも参戦しましたが、85年の12月には病死しました。
大河ドラマの「江〜姫たちの戦国」では、江が嫁ぐのは「3番目の秀勝」なのですが、秀吉のもとに預けられた姫たちが、「2番めの秀勝」と同席する場面もありました。
今日は羽柴秀勝の命日なんだそうです。
— 🍇藤原東子 (静かさ澄みわたる炭と白檀) (@fujiwaraason2) January 28, 2019
織田信長の四男で幼名を於次丸と言い羽柴秀吉が養子に迎い入れました。信長の葬儀では喪主を務め、数々の合戦で活躍しますが19歳の時病気でなくなります。秀吉には三人の秀勝(羽柴秀勝、石松丸秀勝、豊臣秀勝)がいてややこしいです。
亀岡市ききょうの里 pic.twitter.com/629bR1HLom
ところで於次丸の母親については詳細不明で、子どもはなかったとされる濃姫(帰蝶)ではありません。濃姫(帰蝶)は信長の正室とされ、歴史ドラマでは重要な役どころですが、諸説入り乱れ、実際はよく分かりません。
困り顔の帰蝶様可愛い(かわいい)
— 米子 (@maikakokikako) June 13, 2020
#麒麟がくる pic.twitter.com/58sOBUoiZ6
羽柴秀勝、というより豊臣秀勝
3人めの「羽柴秀勝」は、秀吉の姉の「とも」の子で、小吉秀勝と呼ばれる場合もあります。
母:瑞龍院日秀、秀吉の姉のとも
父:三好吉房
生まれ:1569年
養子となる:1585年
没年:1592年
幼名は小吉で、同じ母から生まれた兄の豊臣秀次は、やはり秀吉の養子となり一時は関白となり、ご存知のようにそれ故に死に追いやられます。
秀勝(幼名は小吉)は秀次と一つ違いで、養子となって丹波国亀山城を相続するのは、2人めの羽柴秀勝が亡くなった1585年の16歳ころと考えられています。
於次丸の場合は、養子となり羽柴家の跡継ぎを確保しましたが、小吉の場合、明確に羽柴家の跡取りという立場ではなく、後に秀次が秀吉の養嗣子となりました。
小吉秀勝は1587年に九州平定に従軍し、総大将を務めました。1590年の小田原征伐の後、甲斐国と信濃国の2か国が与えられましたが、遠方であることから母の瑞龍院日秀の願いにより、1591年、美濃岐阜城へ移りました。
1592年の文禄の役では、朝鮮の巨済島に出征し、後に戦病死しました。その前に浅井江(崇源院)と結婚したのは何時かというと、1586年説と1592年説があります。
どちらだとしても、豊臣秀勝と江との間に、1592年か93年に完子(さだこ)が生まれています。豊臣完子は、その後、茶々に育てられ、九条幸家に嫁いで、その子孫が大正天皇の貞明皇后となりました。
昨日は、岐阜城に向かう時、岐阜城の城主でもあった豊臣秀勝と江が結婚、朝鮮出兵の回を観ながら行きました☺️ pic.twitter.com/2UzBFWaBIh
— 桃次郎 (@momojirou0525) April 9, 2017
つまり、豊臣完子によって豊臣家の血筋が現在の皇室に繋がっていると言えます。完子という名前は九条幸家に嫁いだ後の名称なので、幼い頃になんと呼ばれていたかは不明。
秀勝と江との結婚が1592年だとしたら、この結婚生活も大変短いものでした。そして秀勝はわずか23年ほどの生涯。養子となったのですから秀吉の後継者となる可能性も、多少なりともあったはず。しかし、兄で一時は秀吉の後継者になった豊臣秀次の生々しい最期を考えると、秀勝のほうが、まだ平和だったかも?という気がしないでもありません。
ということで、歴史上に3人いた羽柴秀勝ですが、奇しくも3人とも病死しています。ざっくり言うと「秀吉の子」なので、後継者の可能性もあったはずながら、3人とも惜しい生涯でした。