足利義昭は、シンプルに言えは足利幕府最後の将軍。15代将軍に就任後、支えてくれた信長と対立し、一時は信長を包囲した後にその包囲網は崩され、ついには京から追放されました。将軍を辞めた後、晩年は秀吉の配下となって過ごしました。

兄の足利義輝が暗殺される
足利義昭(1537年〜1597年)
⇒ 室町幕府の第15代将軍
義昭は、12代将軍であった足利義晴の次男として生まれました。
父:足利義晴
母:慶寿院
兄:足利義輝(第13代将軍)
足利義昭は家督相続者でないため、当時の慣習として仏門に入って覚慶と名乗っていました。ところが、1565年の「永禄の変」にて、運命は大きく変わることにーー。
永禄の変、すなわち松永久通や三好三人衆によって13代将軍の、義昭の兄、足利義輝が暗殺されました。さらに母も弟も殺害され、足利義昭は一度は幽閉されていました。しかし何とか奈良から抜け出し、縁故の和田城にて足利家の当主となることを宣言。その時に力となったのは細川藤孝、三淵藤英らでした。
ところで2020年の大河ドラマ、『麒麟がくる』では、
足利義昭・・・滝藤賢一
足利義輝・・・向井理
細川藤孝・・・真島秀明
三淵藤英・・・谷原章介
という錚々たるキャストを揃えています。
足利義昭は幕府再興のため、その後、試行錯誤の末に越前の朝倉義景のもとに滞在しました。しかし思うように事態が進展せず、足踏み状態であった1568年、対抗勢力により14代将軍足利義栄が擁立されてしまいました。
その後、義昭は朝倉義景を見限る形で、明智光秀や細川藤孝の仲介により織田信長を頼ることになりました。
信長に奉じられて15代将軍就任、その後、信長と対立
信長を頼った足利義昭は、無事に京都へ戻ることができました。しかし将軍の義昭が信長に、恩賞として管領や副将軍などの地位を提示しても、信長は引き受けることはありませんでした。
信長の意向は、義昭の思惑とはすれ違っており、信長は義昭の臣下になるつもりなど毛頭ありませんでした。
一方で義昭は、ひところは「信長を父として慕う」とまで持ち上げ「室町殿御父」という称号を与えていました。しかしやがて信長の真意に気がついていきます。信長は将軍を抱いておとなしく従うつもりなどなかったのですからーー。
信長が義昭に出した1569年の「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」や「十七箇条意見書」を見ると、2人の間にヒビが入っていった経緯を読み取ることができそうです。
一時は父と慕った信長に対しても、実態に気がついて、しだいに自ら敵意を剥き出しにしていった義昭です。信長を退けるために、信長包囲網を虎視眈々と築こうとした義昭ーー。その包囲網とは、毛利輝元、武田信玄、六角義賢、さらに浅井長政、朝倉義景、松永久秀など・・幅広い武将たちでした。
さらに、1572年には三方ヶ原の戦いで武田信玄が織田信長と徳川家康の連合軍を撃破すると、一時は信長を追い込んだ形となりました。しかし、その後に武田信玄が亡くなると一気に勢いを失います。
京を追われた義昭
さらに、細川藤孝も信長側に寝返りました。信長は朝倉義景をも浅井長政をも滅ぼし、ついに義昭は孤立の身となります。さらに1573年には京都から追放され、若江城や堺などを経て1576年には、瀬戸内海の鞆を拠点として暮らすことになります。毛利家を頼った結果の、毛利家の縁の地の鞆でした。
信長が義昭を滅ぼした時、信長は命を奪うことはありませんでした。切腹させる等の処分でなく、その正否について、信長は後世の判断に任せようとしたと、信長公記での記録もあります。
この記録をそのまま受け取ると、余裕の信長、焦ってやっとの思いで逃げ出した義昭の構図が見えそうです。
しかし義昭は追われた身とはいえ、家臣もいて経済基盤もそれなりに続いていたため、当時の義昭は「鞆幕府」を開いていたと捉えることもできます。しかし一般には、義昭が京都を追われた時点で室町幕府が滅んだと考えられています。
一方で織田信長が1582年、本能寺の変で亡くなると、義昭は羽柴秀吉の天下取りに協力する形で貢献していきます。京に戻ったのは1588年のこと。その後は秀吉のもとで1万石の大名として、しかし元将軍として好待遇で静かに晩年を過ごすことになりました。
ただし、没後の葬儀は秀吉が率先した盛大なものではなく、細川幽斎が執り行った地味な葬儀でした。
信長と敵対した義昭であったため、「本能寺の変の黒幕は義昭だった」という説もあります。しかし確かな根拠は見つかっていません。そもそも本能寺の変の原因が、諸説言われているテーマですから、ことの真相はなかなか解明されそうにもありません。